坂本龍馬
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高知県立坂本龍馬記念館・企画展「龍馬の青春~龍馬と加尾と収二郎」より

平井加尾(西山加尾) の紹介 1838~1909

龍馬の初恋の人といわれる。 龍馬脱藩前に京都へ。   天保9年、高知城西井口村(現 高知市井口町)に生まれ、のちに久万(くま)村(現 同市西久万高野谷)に移り住んだ。
  平井傳八真澄(まさずみ)、茂登(もと)夫妻の長女
  兄・収二郎、弟・卯之助(=7歳で早世)、夫・西山直次郎志澄(ゆきずみ)、長女・平井三千代、次女・西山登喜子
  小高坂村・門田宇平に一絃琴を習う。同門には龍馬の兄・権平、姉・乙女らがおり、龍馬のこともよく知っていた。
  才色兼備で、「強きをくじき弱きを助け、信義を重んじる」というような正義感の強い女性だったようである。
  安政6年(1859)12月から文久2年(1862)10月まで、中納言・三条公睦(きんむつ)に嫁ぎ未亡人となっていた山内容堂の妹・信受院(騂姫(せいひめ)のち恒(ひさ)君)に仕えるため京都に赴き、河原町の土佐藩邸で起居した。
  その間、池内蔵太、河野敏鎌、弘瀬健太ら土佐の志士たちの面倒も見た。
  京都に出た兄と入れ替わって土佐に帰ってからは、両親に仕える。
  兄・収二郎切腹後、加尾は三条家からもらった慰労金で墓を立て、収二郎の爪書きの絶命詩を刻むが、それを知った藩庁の厳命で絶命詩は削られた。墓は約30年後に、収二郎が靖国神社に合祀され贈位されてから、絶命詩を刻んで再建した。
  慶応2年(1866)4月、29歳で土佐勤王党員であった4歳年下の西山直次郎(志澄)を婿養子にして結婚、平井家を継いだ。
  長女・三千代に平井姓を継がせ、明治11年(1878)志澄とともに西山姓となった。 次女・登喜子は16歳で亡くなる。
  志澄の勤務に伴って各地を回り、高知での最後は高知市神田吉野で暮らした。
  明治42年2月27日東京で亡くなり、南青山霊園に眠る。享年72歳。

加尾の夫 西山志澄(ゆきずみ)(直次郎) の紹介 1842~1911

加尾と添い遂げ人。警視総監など要職に就く。   天保13年6月6日、高知城下南新町(現 高知市桜井町)に生まれる。藩士 西山嘉蔵の二男で、学問を市川彬斎、徳永千規に、武術を武市瑞山、吉村頼平に学び致道館に入る。土佐勤王党員。
  慶応2年(1866)4月、25歳のとき平井加尾と結婚し、平井家の婿養子となる。 戊辰戦争では迅衝(じんしょう)隊で転戦。明治3年(1870)兵部省(防衛省)に出仕し、東京に出て役人の道を進む。4年後に辞職して帰郷。立志社の一等発起人として自由民権運動に参加した。
  11年(1878)立志社副社長。この年、妻・加尾と一緒に実家の西山姓に戻る。
  16年(1883)土陽新聞社長、県会議員となる。同年、土陽新聞に龍馬を主人公とした伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』(坂崎紫瀾(しらん)著)が掲載され、大反響を呼んだ。
  20年(1887)三大事件建白運動のとき総代として上京するが、退去命令に従わず片岡健吉、坂本直寛(龍馬の甥)、弟の山本幸彦らとともに投獄された。
  22年(1889)帝国憲法発布による大赦により帰郷。その後も政治活動を続けた。
  25年(1892)植木枝盛の死後、「植木志澄」として立候補し、衆議院議員を5期務める。
  31年(1898)警視総監になる(隈板内閣)。弟の山本幸彦は衆議院議員となった。
  44年(1911)5月27日東京で亡くなり、南青山霊園に眠る。享年70歳。

兄 収二郎 平井収二郎(隈山(わいざん)、義比(よしちか)=よしつぐ とも) 1835~1863

土佐藩・他藩応接役として活躍。勤王党内ナンバー2の存在。   天保6年7月14日、高知城西 井口村(現 高知市井口町)に生まれる。
  平井傳八真澄、茂登夫妻の長男。
  妹・加尾、弟・卯之助(=7歳で早世)、のちに久万村(現 同市西久万高野谷)に移り住み、坂本龍馬の家とは家族づきあいをしていた。
  収二郎は久万の地を愛し、隈山(わいざん=久万山)と号した。
  幼いころから文武を好み、土佐勤王党参加前には伊勢の朱子学者 斎藤拙堂(せつどう)に入門。漢詩漢文などを学び見識を広めた。 頭脳明晰で闊達、思慮深く、歴史好き。「戦国策士」の趣があったという。
  文久元年(1861)秋、土佐勤王党に参加。
  文久2年(1862)6月、家名相続。
  同年8月、藩主山内豊範に従って上京。
  京都他藩応接役となり、諸藩の有志や公家と親交を結んで、収二郎の名は広く知られることになった。 「江戸には間崎滄浪。京都には平井収二郎」と言われ、土佐勤王党盟主 武市瑞山の両翼として活躍した。
  同年12月、同志である間崎と弘瀬健太が江戸にいた山内容堂から藩政改革の内意を受けて帰藩の途中、京都で収二郎と会い、三人で図り青蓮院宮(しょうれんいんのみや)(中川宮、久邇宮(くにのみや)朝彦親王)に藩政改革を促す令旨(りょうじ)をもらう。土佐藩に提出するも、令旨請下を知った容堂の怒りに触れ謹慎となる。
  文久3年(1865)4月、土佐に護送され帰国。
  同年6月8日切腹。遺体は翌日、家族に引き渡された。享年29歳
  明治10年(1877)高知県から祭粢(供物)料賜る
  明治24年(1891)従四位贈られる

加尾のストーリー

音楽を楽しみ 愛を育てた二人   坂本家と平井家は家族ぐるみのつき合いがあり、龍馬と加尾、収二郎は幼なじみだった。「かつて女史(加尾)が久万村にいたころ、上町にある坂本龍馬の家と平井家は互いに行き来していた。とくに加尾と龍馬の姉・乙女とは一絃琴のけいこ友だちで、龍馬のこともよく知っていた」 (『平井女史の涙痕録(るいこんろく)』)という。郷士同士の間柄、知人や縁戚も多い。冠婚葬祭、一絃琴演奏や歌作りなどを通じ、両家は交流を重ねる。年頃の龍馬と加尾も自然とお互いを認め合うようになっていったのだろう。
 一絃琴は京都の真鍋豊平に学んだ門田宇平が帰国後、小高坂村(現 高知市西町)で教室を開き、土佐で流行した。宇平門下には龍馬の兄・権平、姉・乙女をはじめ土佐勤王党副首領・大石弥太郎、平井家と親戚である望月清平ら勤王党員もおり、音曲を通じた情報サロンにもなっていた。
 龍馬は手紙で「門田宇平がむすめ下本かるもが、さかり三林亡(サンリンボウ)などなどお出し候時ハ、そのよふニおどりハ致すまじく」(慶応元年九月九 日、池内蔵太 宛)と、門田宇平のところにいる下本苅藻(かるも)の名演奏で踊りだす人のことを書いている。宇平塾には年頃の娘たちが出入りしており、華やいだ雰囲気もあった。龍馬の手紙には一絃琴のことや、宇平の息子と会って心行くまで話したことが出てくる。龍馬も宇平塾に出入りし、美 しく成長する加尾に心ひかれたことが想像できる。
 一絃琴、三味線、和歌、都々逸(どどいつ)・・・。音楽を通じて、宇平塾の人たちや親兄姉の話、幕末の時勢論に花を咲かせ、夢を語り、気持ちを通じさせていったのか。そんな二人を一絃琴の音色が包んでいる。
 ※ 幕末の土佐は仮装や祭り、すもうなどでにぎわい、龍馬も楽しんだ。「きょうは九月九日の重陽の節句、女たちは貝釣(かいつり)のお面のようにおしろいをこってりと塗っていることだろう」と故郷のことを懐かしんでいる。『土佐年中行事図絵』(高知県立図書館蔵)より「貝釣の仮装」と「藤並神社神祭(じんさい)」
加尾に宛てた龍馬の不思議な手紙   京都にいる加尾に、龍馬は文久元年(1861)9月13日付で手紙を書いた。
     先づゝゝ御無事とぞんじ上候。天下の時勢切迫致し候に付、
     一 高マチ袴
     一 ブツサキ羽織
     一 宗十郎頭巾
     外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候
        九月十三日       坂本龍馬
            平井かほどの
  高マチ袴に打裂(ぶっさき)羽織という乗馬用の格好。顔を隠す宗十郎頭巾、細い大小の刀を用意しろ。龍馬は加尾にそれらの準備を命令している。男装して京都御所か所司代か、あるいは街頭での時勢の動きを探索させようとしたのか。謎めいている。
  この頃龍馬は土佐勤王党に入り、本格的な勤王運動に向かおうとしていた。龍馬は以前に、加尾を男装させて勤王運動に協力させようと、兄・収二郎に持ちかけたことがあった。三条家に仕え土佐藩邸に起居する加尾を、御所の宮仕えに住み替えさせて、幕府が朝廷に対して行っている政治機密を探らせようとするもの。もちろん、堅実な理想家肌の収二郎は龍馬の申し出を断っている。
  それにしてもこの龍馬の手紙は端的である。加尾とはこれだけの文面で分かり合えるほど親密だったのか。加尾は「龍馬の奇行は今に始まったことじゃない。 きっと一大事を思い立ったに違いない」と兄・収二郎には内緒で注文通りに品々をそろえ、龍馬の連絡、あるいは上京を待った。一大事とは“脱藩”だと思ったのだろうか。
加尾はなぜ京都に行ったのか   加尾は22歳のとき、京都の三条家に出仕した。前年江戸から帰国して土佐にいた25歳の龍馬はどんな思いで加尾を見送ったのだろう。時勢は切迫していた。  
  山内容堂の妹・騂姫(婚儀後に恒君)は嘉永5年(1852)12月に権中納言・三条公睦に嫁いだ。公睦は、尊王攘夷派の公卿・三条実万(さねつむ)と第十代土佐藩主・山内豊策(とよかず)の三女紀子の長男。恒君との間には男子(東三条公恭)が生まれたが、公睦は結婚した2年後の嘉永7年(1854)に27歳という若さで亡くなった。公睦の死によって三条家を継いだ弟の実美(さねとみ)も父同様の尊王攘夷派で、 八月十八日の政変により朝廷から追放され、長州に落ち延びた七卿の一人である。
  恒君は夫亡き後、信受院となり京都土佐藩邸に住んでいた。安政6年(1859)12月、加尾は信受院に仕えるため京都に出た。加尾も土佐藩邸に住み、昔 なじみの土佐の志士たち、池内蔵太や河野万寿弥(ますや)、弘瀬健太らの窮乏を救ったこともある。困ったり苦しんだりしている人を 見過ごせない正義感の強い女性だったらしい。
  収二郎が京都に来て勤王活動をしていたとき、加尾は収二郎に頼まれ、下女の姿に変装して兄の手紙を同志に届けたり、薩摩藩邸内の様子を探ったりしたこともあったという。
  勤王運動に走る収二郎や龍馬を理解し、女だてらともいえる行動をとる加尾。加尾は土佐藩も認めた才女であり、京都で公武合体派の容堂の妹に仕えた。しかしその実、勤王運動の一端を担って情報収集役をしていたと考えてもおかしくない行動が見られる。
龍馬脱藩。二度と会えなかった二人   龍馬は不思議な注文の手紙を書いた翌年の文久2年(1862)3月24日、沢村惣之丞と脱藩した。  今から150年前のことである。
  脱藩の翌日、兄収二郎は加尾に手紙を送って戒めた。
  「坂本龍馬は脱藩した。必ずお前を訪ねていくだろう。しかしお前は女であって、この収二郎が国のために死ぬことでもあれば、兄に代わって家の血統を継ぎ、父母を慰めなくてはいけない。龍馬から大事な相談があっても軽々しく危険な場所に近寄ってはならない。龍馬は人物ではあるが、本を読まないために時として変な考えを起こすこともある。注意せよ」と。このとき加尾は初めて龍馬の脱藩を知った。
  脱藩後の龍馬の足取りは定かではないが、夏ごろ大坂に着いた後、江戸に向かったと思われる。前年の秋に来た龍馬の手紙を胸に、加尾は龍馬の訪れをどれだけ待ったことだろう。しかし加尾は龍馬と再会することなく、10月に帰国することになった。加尾と入れ違うように、龍馬の舞台は京都に及んでいく。
  龍馬が大坂に着いた当時、公武合体を推進する薩摩の実力者、島津久光に不満を持つ尊王派の同士討ち事件が京都伏見の寺田屋で起こった。そのため浪士たちの取締りが厳しくなったために龍馬は京都に来られなかった。加尾は、龍馬との行き違いの理由をそう思っていた。
  今私たちは、明治期の『平井女史の涙痕録(るいこんろく)』という聞き書きに収められた話から、龍馬と加尾の関係を推し量ることが出来る。自由民権運動の中心にあった立志社の社員だと思われる人が加尾に聞いたもので、聞き手の某は「再び龍馬に対面する期なくて止みしハ、女史の一生涯遺憾に思ふ所なり」 と、加尾の代弁をした。
  「一生涯の心残り」。龍馬に再会できなかった加尾の気持ちである。
外交官・収二郎の活躍   一藩勤王を掲げた土佐勤王党の中で、収二郎は同志の信頼もあつく、盟主・武市瑞山に次ぐリーダーだった。学問や武術を好み、明朗闊達。家督を継ぐ長男でもあったので、両親や家を大事にしたが、吉田東洋が暗殺されるまでは脱藩も覚悟していたようだ。
  東洋暗殺後、勤王党の勢力が強くなり藩論をリードできるようになると、藩主・豊範(とよのり)の上京に従って収二郎も京都に出た。文久2年(1862) 年8月、藩から外交官である他藩応接役を命じられ、活躍を始める。薩摩の本田弥右衛門、長州の桂小五郎をはじめ各藩の有志や公家らと親交を結んで、京都に おける土佐藩の実力者となった。
  そんな表舞台とは裏腹に、このころ京都では、越後の本間精一郎や町奉行などが「天誅(てんちゅう)」という名のもとに暗殺された。収二郎がそれらの暗殺に関与していることを、加尾も知っていた。
  同じ京都で数ヶ月暮らす間、加尾は収二郎を助け、その活躍を間近にした。死を覚悟して勤王運動に働く兄を見つめていたのである。
  同年10月、収二郎は「両親に忠孝を尽くすよう」にと、加尾を土佐に帰す。ますます過激になる京都に妹が居ることや両親のことを案じたからである。兄妹の別れに加尾は涙を流し、それを叱る収二郎も同じ思いだったと日記『隈山(わいざん)春秋』に記した。二人は歌を詠んで、別れを惜しんだ。
     別れ路はなほ惜しけれど古里の父と母とがいかに待つらむ  収二郎
     たらちねのためにはかくとおもへどもなほ惜しまるゝ今日の別路  加尾
蓮院宮(れんいんのみや)令旨(りょうじ)事件   文久2年(1862)12月、江戸にいた土佐勤王党の間崎滄浪は前藩主 山内容堂から藩政改革の内意を受けて、弘瀬健太を同伴して土佐に帰ることになった。
  途中京都に着いた二人は、収二郎と会って藩政を一新するための協議を重ねた。なぜなら当時の土佐には、隠居の身でありながら強い保守勢力を持つ景翁(12代藩主山内豊資(とよすけ))がいて、改革の大きな壁となっていたからである。
  そこで三人は、収二郎が薩摩の寺田屋事件を通じて知っていた青蓮院宮(中川宮、久邇宮(くにのみや)朝彦親王)に会いに行き、景翁への令旨(りょうじ)(皇族の命令)をもらうことにした。
  青蓮院宮は「これを景翁に渡して、こんな切迫した時代であるから私の意を汲み進んで藩政改革するように伝えよ」と令旨を下した。間崎と弘瀬は喜んで土佐に帰り、藩を通じて景翁に令旨が渡った。そこから改革は大きく前進していく。
   ところがこのことを容堂が知り、下士の先走った行動だと激怒した。青蓮院宮は三人の行動を薩摩藩士にもらし、そこから容堂の耳に入ったのである。武市瑞山は「公武合体派の薩摩の悪巧みにはまった」と悔しがった。
   それから数ヶ月後、三人は切腹を命じられる。
ああ、悲しいかな。   青蓮院宮の令旨を持って土佐に帰った間崎滄浪と弘瀬健太は活発に動いた。令旨が景翁に渡ったあと藩政改革は勢いづき、その報告を受けた武市瑞山も帰国して応援体制に入った。
   一方、容堂は文久3年(1863)1月、江戸を発って船で上京した。このとき嵐に遭い、伊豆下田に避難上陸。そこで勝海舟と遭遇し、勝の門下に入った龍馬の脱藩罪を赦免している。龍馬は容堂の上京が生んだ偶然により、勝とともに海軍創設に向けて新たに動き出すが、収二郎らは容堂のこの上京によって身を滅ぼすことになった。
   京都で公武合体に向けて動いていた容堂は、土佐勤王党を代表して動く武市と収二郎が目ざわりだった。収二郎は他藩応接役を解かれ、間崎とともに青蓮院宮令旨について叱責を受けた。ここから三人の自首、謹慎、帰国と、収二郎にとって思いもかけないことが起こっていく。武市による赦免陳情も容堂は聞かなかった。
   4月1日、収二郎は京都を出発し土佐へ護送される。途中、兵庫・湊川(みなとがわ)の楠(くすのき)正成(まさしげ)の墓前で自刃するつもりもあったが、土佐で死のうと思い改める。久々に家族と再会した後、下級武士が入る獄舎につながれ、6月8日切腹を命じられた。
「首をはねられると思っていたが、(武士の最期にふさわしい)切腹を命じられ、永遠の恨みに思う気持ちも絶えた」と諦観し、短刀で割腹。親族の半田亮吉が首を刺し絶命した。同時に間崎、弘瀬も切腹するが、いずれも無念の死であった。
   三人は土佐勤王党最初の殉難者であり、これ以降、勤王党の弾圧は厳しくなっていった。
「お加尾の悲しみはどれほど深いだろうか」   文久3年(1863)6月29日、龍馬は姉乙女に、いわゆる「日本の洗濯」で有名な手紙を書いた。脱藩した翌年、勝海舟とともに海軍建設に向けて奔走する時期で、文面は伸びやかで力強い。長さも3メートルを超えている。幕府に対する義憤、乙女への冗談交じりの忠言、自嘲しながら命がけの決意ものぞく。
  追伸に、「そして平井の収次(ママ)郎ハ誠にむごい――。いもふとおかを(加尾)がなげきいか斗か、ひとふで私のよふすなど咄してきかせたい。まだに少しハきづかいもする」とある。龍馬書簡を代表するこの手紙は、心中深くある平井兄妹への思いで締めくくられている。
  龍馬は加尾のことを親しく「お加尾」と呼び、その心中を思いやっている。しかし、追伸で、しかも乙女や姪の春猪、乳母や下女、豆蔵という人らのご機嫌伺いにまぎれ込ますような内容ではないはずである。あえて龍馬自身の悲しみや苦しみをさらけ出していないようにも思える。
  龍馬は「手紙で私の様子などを話して(なぐさめて)やりたい」と言っているが、その後手紙は書いていない。2年前の謎めいた手紙以降、加尾は龍馬から手紙を受け取った様子がないからだ。
  とすると、「まだに(未だに)少しは気づかいもする」という時間の始まりはいつか。収二郎の切腹、いやそれ以前、もう会うことのない別れをしたときか。確実に時間は流れ、二人の情況が変わったことを感じる一文である。
  収二郎の切腹は、その死への嘆きに加え、龍馬と加尾の青春が終わったことを告げた。その後二人はきっぱりとそれぞれの道へ向かっていく。
その後の人生   文久3年(1863)の6月か8月のある日。収二郎が亡くなって間もないころである。龍馬は姉の乙女に「この話にはちくと訳があるきに、とにかく人に言うたらいかん」。そんな但し書きのついた手紙を送った。内容はおさな(佐那)という26歳の女性の紹介である。長刀(なぎなた)がうまく、男子より力があり腹も据わっているが、琴を弾き絵を描く物静かな人だという。日付は14日としか書かれていない。文中「器量は平井(加尾)よりちょっといい」「言葉数が少ないのは、今の平井(加尾)と同じくらい」という言葉が気にかかる。
   脱藩後、京都で再会できなかった加尾への気持ちを清算して、龍馬は2度の江戸修行で知り合っていた千葉定吉道場の長女佐那への気持ちに目覚めたのか、再燃したのか。手紙では恋人風で、乙女姉さんに気に入られようとしている。 命がけの脱藩、国事への奔走は、龍馬の恋心への変化も生んだ。翌年には京都でお龍という女性と知り合い2年後に結婚する。時流のまま、一番必要な女性が龍馬の隣に残っていく。収二郎切腹から3年半。大政奉還にこぎつけた龍馬は、京都土佐藩邸近くの近江屋で暗殺された。享年33歳。明治はまだ来ない。
  土佐に帰った加尾は、青蓮院宮令旨事件で護送され帰国した収二郎を迎えた。京都で永遠の別れをした後の再会とはいえ、罪人として帰ってきた兄を迎える家族の苦しみは計り知れない。
   兄の死後、平井家を守る決心をした加尾は慶応元年(1865)4月、土佐勤王党員であった西山志澄を婿養子に迎えて結婚し、平井家を継いだ。当時としては晩婚の29歳。女の子二人を産んで実家と婚家の名を残そうと努めた。兄の無念を心に刻み、両親に仕え、夫に仕えた人生であったと思う。
   時代は明治へ移る。加尾は土佐の坂本家に来たお龍に会ったかもしれない。明治12年(1879)まで生きた龍馬の姉 乙女とのつき合いは続いていた。愛しい龍馬や収二郎を見送った女たちは、昔話に涙しながら、お互いを励ましあっただろう。傍らには加尾の娘たちもいる。加尾と乙女は、一緒に一絃琴を奏でたのだろうか。
   夫 志澄は自由民権運動家で、龍馬の兄 権平を継いだ坂本直寛の同志。立志社副社長、土陽新聞社長から県会議員、衆議院議員となり、政治家としての姿勢は「政界の豹(ひょう)」と恐れられるほどだった。明治31年(1898)、日本最初の政党内閣 隈板内閣(首相・大隈重信、内務大臣・板垣退助)のとき警視総監となった。志澄の写真は威風堂々、明治を生きた男の自信が満ちている。
  その志澄の隣に40年余りいた加尾の写真は今、一枚も残っていない。
収二郎と一緒に眠りについた両親   家族の絆   収二郎が切腹した翌日、家族はそのなきがらを引き取った。収二郎の無念、家族の心労ははかりしれない。せめてもと、加尾は三条家からもらった慰労金で収二郎の墓を立て、爪書きの絶命詩「嗚呼(ああ)悲しい哉(かな) 綱常張らず・・・」を刻んだ。それを知った藩庁はそれを削ることを厳命し、平井家は従うしかなかった。墓は約30年後、再び加尾が絶命詩を刻んで再建した。
  収二郎の墓は、生家の近くで坂本家の人たちも眠る高知市丹(たん)中山(ちやま)にある。ところが、収二郎兄弟の両親 真(まさ)澄(ずみ)と茂(も)登(と)は、曽祖父の傳八とともに、離れた高知市筆山に眠っていた。墓参者もなく墓石は傾き、墓所も崖に向かって崩れようとしていた。
  平成24年(2012)4月。有志の働きにより、両親らの墓は収二郎のもとに移された。そこには早世した収二郎の弟 卯之助や祖父母も眠っている。収次郎没後約150年、父 真澄生誕200年の今年、平井家三代が集まり安らかに眠った。その姿を遠く東京で眠る加尾が、誰よりも喜んでいることだろう。